熱気

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 バンコクには北部、中央部、東部、南部と方面別にバスターミナルがあり、北部の都市であるピサヌロークからはるばるやってきた私のバスは、空港近くの新北バスターミナルに到着した。首都バンコクを代表するこのターミナルの混雑ぶりは地方都市ピサヌロークの比ではなく、もう日もだいぶ傾いているというのに衰える気配すら見せないその暑さは、バンコクがより赤道に近いまちであることを私に改めて思い起こさせた。
~新北バスターミナル~

 入国以来、あまりの暑さのため水ばかり飲んでいてほとんど食事らしい食事のできなかった私の横を、タイ人たちは涼しげな顔をして通りすぎていく。彼らとて決して涼しいはずはないのだが、なぜか汗ひとつかいていないその姿は私には非常に涼しそうに見えた。体の構造が違うとしか思えない。憔悴して止めど無く汗を流す私が、なんだか滑稽に思えてきた。暑い暑いといってはいるが、奴らを見てみろ。おまえが自分でそう思っているだけで、本当は涼しいんじゃないか?
 否。やはり暑かった。
 まずは市内に行かなくてはならない。だが全貌を掴むことすらできないこの巨大なバスターミナルから脱出するための手がかりは、構内のどこにもみつからなかった。私はインフォメーションに駆け寄ると係員に尋ねた。
「カオサン通りに行きたいんだ」
「二番の赤バスだよ」
 ターミナルの中の道路には、文字通り途切れることなくバスが流れていた。遠くへ行くバスも、市内へ向かうバスも、次から次へと私の目の前を通りすぎていく。地下鉄のような大量都市交通機関を持たないバンコクでは、網の目のように張り巡らされた市バスが市民の足としての役割を担っていて、その路線数は二百ともいわれている。
 車の流れを追っているうちに、ついにお目当てのバスが視界に入ってきた。私は手を上げると、軽く減速しただけのバスのステップに飛び乗った。市バスの多くはエアコンがなく窓もドアも開けっ放しだが、その分風通しはよく、走っている間は熱風を体に受けそれなりに快適な思いができる。
 バスはしばらく走り、あたりになにもない大通りのバス停に停車した。なぜかそこで乗客はほとんど降りてしまったが、私は車内でそのまま待つことにした。そのうち新たな客が数人乗ってきたので、私は念のため車掌に、カオサンに行きたいんだが、と言ってみた。すると彼は驚いて通りの反対側を指差すと、降りろ降りろと叫び始めた。私はわけもわからず荷物を掴むと、加速し始めたバスから転がるように飛び降りた。おかげで足を挫いた上にピサヌロークで買った帽子まで車内に置いてきてしまった。
 降りろといわれて降りたはいいが、ここがカオサンなわけはない。私はひとまず、車掌の指差した方向へ歩道橋を渡って行ってみた。こちらにも同じようにバス停がある。すかさずモトサイ(二輪タクシー)のライダーとタクシーの運転手が寄ってきた。カオサンまでの値段を聞いたが、誰もが法外なことを言う。ここがどこかもわからない私は、彼らの言い値にどれほど正当性があるのかの見当もつかず、途方にくれてしまった。もしかしてまだ遥か郊外なのだろうか。
 進むことも退くこともできずその場にしばらく突っ立っていると、モトサイライダーが苦笑いを浮かべながら私の肩をたたいた。
「金がないならあの二番の赤バスに乗りな」
 見るとバス停には先ほどと同じ番号を振られた赤バスが入ってくるところだった。
「二番のバスなら乗っ…」
 言い終わらないうちにバスは再び動き始めた。私は取るものもとりあえず走り寄ると飛び乗った。なんで反対車線の同じバスに乗るんだ、と言いたかったのだが、最悪でも元の場所に戻るだけだ。そしてターミナルで一から出直しだ。ところが予想に反してバスはまちの方へと進み始めた。やれやれ。いったいどうなってやがるんだ、市バスってやつは。
~水上の商人~

 タクシー以外の交通機関に乗って困るのは、自分の目指す場所が終点ではなく、しかもそれがどのようなところであるかを知らない場合である。今の状況がまさにそれだった。二台目の二番のバスに乗ってから、もうすでに一時間近くが経過している。ことによると気づかないうちに乗り過ごしてしまったのかもしれない。必死に窓から外の様子を伺い、ランドマークになりそうな建物を探しては地図との照合を試みるが、成果はさっぱりだった。私はあきらめて乗客に尋ねることにした。
「すみません、カオサ…」
 私に最後まで喋らせず、学生風のその男は首を横に振った。脇に立っている女性に尋ねても同様の反応だった。どうすればいいんだ?私は最後の望みを託して車掌をしている中年女性に聞いてみた。
「カオサン通りについたら教えてもらえませんか」
 彼女はわかったともわからなかったとも取れる曖昧な首の振り方をすると、料金を徴収しに後ろのほうに行ってしまった。がたがたしてもしようがない。あとは彼女が私の言ったことを理解してくれていることを祈るだけだ。
 さらにしばらく走ったところで彼女が私の肩をたたいて目的地への到着を知らせてくれたのは、幸運だったというべきだろう。

 ここがバックパッカーの聖地としてその名も高いカオサン通りか。行き交うのは欧米人ばかり。通りの両側を埋め尽くす店舗には、格安航空券を扱う旅行代理店や時間貸しのインターネット屋、バーやカフェといった店から雑貨屋やタトゥー屋、ホテルにゲストハウスまで、およそ旅行者に必要と思われる店はなんでも揃っていた。看板は英語表記のものばかりで、どの店でも気持ちよく英語が通じる。バンコクの中の外国、租界地区と言われるのも頷ける。
 本当のタイ好きはカオサン通りには近づかないという。ここはタイであってタイではなく、麻薬取り引きの一大拠点でもある。望むものはなんでも手に入るし、払う金の多寡に応じて、どんな人間でも相応の生活を得ることができる。
 まずは一夜の宿を探すことにした。いくつかのホテルをまわったが、これといったところがない。部屋が汚かったり、料金が高かったり。何軒目かで、八十バーツという格安のゲストハウスを見つけた。三百円しない宿である。この値段なら、ほかにどんな短所があったとしても目をつぶることができる。私の部屋は四階で、角部屋だった。言うことなしだ。
 部屋の広さはベッドとほぼ同じ、ドアを開けると靴を置く隙間もなく目の前にベッドがある、というまさに寝るためだけのスペースであったが、これで八十バーツなら十分過ぎるほどだ。
 体ひとつを押し込めるだけのスペースしかない共同シャワーを浴びる。水が温水のように感じられる。水を浴びている間だけが天国だ。だが蛇口を閉めて水を止めたとたん、間髪をおかずに汗が噴き出す。こりゃダメだ。

 私は外に出ると、いろいろな店を冷やかしつつ歩いた。この妙な居心地の良さはなんだろう。東洋のただなかにあって、体は自然と西洋的なものを求めていたのだろうか。私の東洋人としてのアイデンティティーはいったいどこにあるのだろう。あるいはそんなものはすでに跡形もなく私の遺伝子から奪い去られてしまっているのかもしれなかった。
~小舟で運河を行く~

 いくつもの旅行代理店を見て歩くうちに、水上マーケットのことが気になり始めた。明日は早起きしてバンコク郊外で毎朝開かれているという水上マーケットに行ってみようと思っていたが、一人でそこへ行くには、あのわけのわからない市バスに乗らなくてはならなかった。無論タクシーをチャーターする金など残ってはいない。
 普段の旅なら進んで困難にも身を投じる覚悟の私ではあったが、常軌を逸した暑さと、カオサン通りのぬるま湯のような雰囲気に、いつになく弱気になってしまっていた。そんな私の目に、山ほど掲示されているバンコク発のツアーの一つ、「水上マーケット半日観光」の文句は魅力的に映ったのだ。
 私は生まれてこの方ツアーというものに参加したことがない。ここらで一つ体験してみるのも面白いかもしれない。値段をきくと百五十バーツだと言う。そうか、五百円で半日観光ができるのか。私は柄にもなく浮かれてしまった。明朝七時の十分前までに店に集まってください、と言われて私は店を出た。

 夕食をとるために通りの隣に広がるバンランプー市場の屋台に出かけた。屋台なら僅かの金で腹を満たすことができる。私が一人ライスヌードルを啜っていると、一人のタイ人女性が向かいの席に座った。せっかくだから写真でも撮ってもらおうと彼女にシャッターを頼んでみた。
「あなた、日本人?」
「うん。君は英語話せるの?」
「私、ガイドになろうと思ってるのよ。英語ならできるわ」
 ガイド志望のその女性、アモーンさんは、小柄な外見からはとてもそうはみえないものの三十歳だという。彼女は食べるのもそっちのけで話に夢中になり始めた。文化遺産や遺跡に興味があるという彼女は、訪れてみたいという国々を列挙した。私は日本にも古い寺社が残っている、と言ったが、どうやら彼女は本当に朽ち果てたところが好きなようだった。
「ところで、タイではどこに行ったの?」
「昨日までピサヌロークに行っていた。今日バスで戻ってきたんだ」
「じゃあスコータイにも行ったのね」
「いや、それが行ってないんだよ」
「ああ、なんてこと!タイに来てスコータイに行かないなんて。スコータイはタイで最も有名な遺跡なのよ。なんで行かなかったの?」
「なんでって…」
 なぜ行かなかったのだろう。あれこれ理由をつけてみたところで、とどの詰まり、私が遺跡には興味がないだけなのかもしれなかった。
「時間がなかったんだ。五日間しかいられないんだよ」
 遺跡のすばらしさを熱っぽく語る彼女に対しては、私はしかしそう言うしかなかった。
 気づくと彼女の皿はすっかり冷え切っていた。
「飯、食えよ」
「あ、そうね。でももういいわ」
 私は二人分の料金を払うと、彼女と歩き出した。
「ねえ、さっきなんで私の分も払ってくれたの?」
「ははは。そうだな、友情の証、かな」
「友情の証、ね」
 彼女は言葉の意味を吟味するかのようにゆっくりと復唱した。
~横町のにぎわい~

 私たちは夜のまちを歩きながらいろいろな話をした。バンコクの印象を聞かれ、暑いけど好きだ、と答えると彼女は驚き、本当にこの暑さが好きなの、と尋ねてきた。いや暑いのは嫌いなんだけど、と思いつつも私はこう答えた。
「まあね。悪くない」
 話題を変えることにした。
「君はいつの季節が好き?」
「私は雨季が好きよ。雨の日には思い出が詰まってるの。悪いこともあったけど、いいこともあったわ。雨の日の出来事は印象に残るの」
 彼女はとても個人的なことまでも私に話して聞かせてくれた。大通りに出た私たちは電話ボックス前の煉瓦に座り込み、流れるヘッドライトの光を追いながら、夜がふけるまでお互いについて語り合った。
 旅に出るということは、とりもなおさず非日常の世界へ踏み出すということである。そして旅先での出来事は、日常の世界に戻ったとたん、すべてが思い出という名の箱の中に閉じ込められてしまう。
 だがそのときの私にとっては、彼女と語り合っている姿こそが日常であり、異国にいるということがそのまま現実だった。
 私たちは翌日の晩の再会を約すと、別れた。


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