狂騒

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 翌朝六時五十分に店に向かうと、すでに五、六人の欧米人たちが集まっていた。だが水上マーケット行きに参加するのは私だけだったらしく、係員に連れられて他店のものらしきワゴン車に押し込まれた。中には欧米人が数人と日本人が一人おり、助手席に座らされた私は彼らと話すこともなく片道二時間あまりの道のりを耐えなくてはならなかった。
~水上マーケットの軽食屋~

 途中でココナツファームという場所に立ち寄らされた。ここでしばらく見学しろと言う。なるほどこれがかの有名な土産物屋引き回しと言うやつか。私は初めての体験にちょっとした感動を覚えたが、そのころには格安のツアーに参加しながら朝市の喧騒を楽しもうなどとはあまりにも虫のいい考えだったということを思い知っていた。目的地に到着したときにはすでにすっかり日も高くなっていたのだ。
 私たちはモーターボートに乗りかえると、運河の中をしぶきを飛ばしてマーケットへと向かった。水上マーケットは、観光地でありながらバンコクの古き良き時代の息吹を残したところだと聞いていた。だが実際に目にしたそれは、欧米人たちで溢れ返る、紛れもない純粋な観光地そのものだった。おまけにこれだけの時間を費やしてやってきながら、四十五分後には元の場所に集まるようにとガイドは言う。やれやれである。
 百歩譲って土産物屋はまだ許せるとしても、自分の好きなところに好きなだけいることができないというのは致命的だった。これでは何のための一人旅かわからない。
 帰りも意味もなく(もちろん店にとっては意味があるのだか)ハンドクラフトセンターに寄らされ、一時間も足止めを食らってしまった。癪だから意地でも何も買ってやらなかったが、ツアーと呼ばれるものの片鱗を伺い知るには、十分過ぎる経験であった。
 手軽さや安さと引き換えに失うものはあまりにも大きい。私がツアーを利用するのはこれが最初で最後になるであろうことはほぼ間違いなかった。

 夜七時、約束の待ち合わせ場所に向かうと、そこにはアモーンと日本人の男がいた。
「あっ、どうも。さっきここ歩いてたらこの人に声かけられたんです。まだバンコクに来たばっかりでなんにもわからなかったから、話を聞いていたところ。ちょっと怪しいかな、って思ったんだけど」
「この人なら心配しなくても大丈夫ですよ」
 というわけで、卒業旅行として単身タイにやってきたという新米外科医の宮本さんとアモーンと、三人で食事をしにいくことになった。彼女の勧める水上レストランに向かった私たちは、そこで初の本格的タイ料理に舌鼓を打ち、話に花を咲かせた。彼の医局での先輩医師の一人が私の高校時代の同級生だということもわかった。世界は狭いものだ。
 そのうち閉店の時間も近づき、他の店で飲み直そうということになった。来るときはタクシーだったのだが、アモーンの「歩けるわよ」という言葉に従って歩いて戻ることにした。彼女は細い路地や暗い裏通りを先導して進んだ。そこには、表通りを歩いていたのでは決して見ることのできない、バンコク市民の飾らない生活があった。
「すごいなあ。こんなところ一人じゃ歩けないよ」
「さすがは地元の人間だね、彼女」
 私と宮本さんはそう日本語で囁き合ったが、彼女は当たり前でしょ、と言わんばかりに微笑んだ。無機的な都市の裏側に存在する日常の一コマは、空調の効いた高級ホテルの一室より、緑濃い国立公園の木陰より、はるかに私を落ち着かせるものだった。
 いつのまにか私たちはカオサン通りに出ていた。
「あそこで飲みましょうよ」
 いくつもある欧米人相手のバーの一つでカクテルと洒落込むことにした。店構えはオープンで、通りにはみ出したテーブルに陣取って皆で騒ぎながら飲むという、カフェに近い形態のバーである。
「アキラは第一印象と違ったわね」
「どんなふうに?」
「感情を出さない、殻に閉じこもった人かと思った」
「でも違っただろ」
「そうね。話さなきゃわからないもんね」
~バーの前で~

 話しこむ私たちのテーブルに一人の少女が近づき、画用紙を広げて見せた。勉強したいのですがお金がありません、と英語で書いてある。要は情に訴えた物乞いであり、そんなものは今の私には通じない。
 小鳥売りの老人がやってきた。私たちは一籠買い、すぐに中の小鳥を空に向かって放してやった。これも新年を祝う風習の一つなのだ。
 陽気なタイ人が寄ってきて、私の肩を掴むと機関銃のような英語で叫んだ。
「日本人か。新年おめでとう。タイは暑いだろう。ああ暑い暑い。タイ料理は好きか。タイ料理はうまいぞ。でも辛いぞう。ああ辛い辛い。タイ料理ならトム・ヤム・クーン!はーっはっはっはっ」
 はっはっはっ。…はあ。
 向かいのテーブルからは、呑んだくれのスコットランド人がろれつのまわらない舌で私たちにしきりに何か訴えてくる。はいはい、まあゆっくり飲んでいて下さい。
 ぴゅっ!
 水が飛んできた。見れば通りには大きな水鉄砲を構えた者たちが増え始めている。おもちゃとはいえ圧縮空気を使った強力なもので、タンクを背負うタイプの本格システムで完全武装している人も少なからずいた。明日はタイ正月の元旦、今日はさしずめ大晦日にあたる。どうやらいよいよ前夜祭が佳境に入る頃合いらしかった。
 ソンクラーンはまたの名を水掛祭とも言い、一年の始まりに恵みをもたらす水を掛け合うことによって互いの幸福を祈るというならわしだ。本来は慎ましやかなものであったろうこの祭も、カオサンに集うジャンキーや世捨て人にとってはさらにキれるための、そして由緒正しきバックパッカーにとっても非日常の中にもう一段の非日常を持ち込むための格好の口実に他ならない。
 スキンヘッドがバーの店内にまで攻撃を仕掛けてくる。すでにグラスの中はカクテルなのか水なのかわからない。もはや高みの見物を決め込んでいるわけにはいかなかった。
 私たちも早速水鉄砲を買ってくると、通りに設けられた大きな木製の桶にためられた水を詰めて参戦することにした。桶の回りは暗黙の中立地帯のようだったが、私はこれまでの借りを返すために狂ったように誰彼かまわず打ちまくってやった。辺りは騒然としたが、それでも私たちがいるのはカオサン通りでも端のほうだった。散発的に戦闘がくすぶるこことは違い、通りの中ほどでは山のような人だかりになっている。どうやらあそこが最前線らしい。私たちは再び武器を構えると前進した。
 いきなり頭から水をかけられた。見上げれば二階から攻撃してくる奴らがいる。卑怯な!当然応酬するも、勝ち目はない。まずはフェアに戦える場へ行かなくては。
 通りの両サイドに居並ぶバーやカフェはそれぞれが勝手な曲をかき鳴らし、上半身裸の男たちは肩を組み合って踊っている。そこらじゅうにこだまする悲鳴と勝鬨。奇襲をかける男たちは隙を見つけては敏捷に走り回り、全身水浸しのタンクトップの女たちは裸よりもセクシーで、脱ごうが踊ろうがわめこうが歌おうが、何をやっても許されるという状態だった。
 ふと気付けば既にメインの武器はバケツになっていて、謳い、踊る人々の波はもはや誰にも止めることができなかった。私も姑息な手段に頼るのはやめ、通りを埋め尽くす巨大なうねりに身を任せることにした。
 誰もが笑い、誰もが心から新年を祝っていた。そこには浮き世の憂いなどひとかけらもなく、あるのはただ、特別な時間を共有しているという強い思いだけだった。あるいはトラディションとは似ても似つかぬものであったかもしれないが、そのとき居合わせたすべての人にとって、それは確かにソンクラーンであったのだ。
 カオサンの狂騒は、いつ果てるともなく続いた。

~とある商店街~

 翌日目覚めると、すでに真昼近かった。私は荷物を預けると、トゥクトゥクでナコーンカセーム(泥棒市場)へと向かった。ところが私の発音が悪かったのか、降り立ってあたりを地図と照合しても、どことも一致しない。どうやら見知らぬところに連れてこられてしまったようだ。まあいいか。別にどうしても泥棒市場へ行きたかったというわけではない。私はあてもなくまちを歩くことにした。
 バンコクは広い。東京でも外国人を見かけるところとそうでないところとがあるように、バンコクにもまたローカルな場所というのはある。私が迷い込んだ商店街は、どうやらそうした場所のようだった。
 まちの食堂で休憩することにした。
「なんかヌードルください」
 おばさんは困ったように笑っている。困ったとき笑うというのは日本人と似ていないでもない。しかたなく私は隣のテーブルの料理を指差した。そのテーブルを囲んでいた女性たちは、ねえ私たちと同じもの欲しいんだって、といった様子で盛り上がっている。私はそちらのテーブルに移って、彼女たちと一緒に食事をすることにした。言葉が通じないので適当に笑っているだけだが、タイの日常に溶け込んだようで、私にとっては愉快なひとときだった。

 熱中症を防ぐためにバンコクで買った二つ目の帽子をかぶり、私はさらに歩きつづけた。相変わらず自分がどこにいるのかわからない。郊外に向かっているのかもしれなかったし、中心部に近づいているのかもしれなかった。
 急に視界が開け、ビル群が目に入ってきた。間の通りに入ると、薄汚れた舗装路を行き交う人は少なく、子供たちだけが水を掛け合って騒いでいた。
 通りかかった日本人女性が水を掛けられた。すると驚いたことに彼女は烈火のごとく怒り始めた。子供たちが面白がってさらに掛けるものだからたまらない。彼女は鋭い罵声を浴びせると去っていった。
 困った光景ではあるが面白くないこともなかったので、歩道に座って人間観察をすることにした。どうやらここを通りかかった人は有無を言わせず水を掛けられる運命にあるようだ。それは人でなくとも同様であり、バスでも自家用車でもトゥクトゥクでも、同じようにバケツの水を浴びせられる。今日に限ってはどの市バスも窓を閉め切って襲撃に備えていたが、あれでは客は暑くてしかたがないだろう。
 ピックアップトラックの荷台に溢れるようにのった若者たちが、すれ違いざま互いに水を掛けあう。二輪車の群が爆音を轟かせながら間をすり抜けていく。昼のソンクラーンは、夜のそれとは異なりどこか微笑ましいものだった。
~中華街のフカヒレ屋台~

 ところがふと標識を見上げて仰天した。あろうことかパッポン通りと書いてある。これまで一時間以上こうしていてもまったく気づかなかったのだが、なんとここは因縁浅からぬパッポンだったのだ。言われてみれば確かにビルの壁にはネオンサインが張り出してはいるが、明かりが消え、露店もなく、子供たちにあふれたこの通りがあのパッポンだとは…。底無しの深さといかがわしさを秘めているように思えたあの通りが、今は一本の健やかな道にすぎなかった。
 私は思わず笑ってしまった。結局ここに戻ってきたのか。
 重い腰を上げると、中華街を経由してカオサンに戻ることにした。途中、ふと通りかかった屋台で売り子の笑顔に誘われるまま豪勢にもフカヒレの煮込みなどを味わってしまったせいで、ボーディングまでの時間の余裕はほとんどなかった。カオサンでは元旦の夜が始まろうとしており、荷物を背負って空港行きのバスへと急ぐ私にも容赦なく水が浴びせられた。

 都市はさまざまな顔を持つ。そして、そのどれもが真の姿であると同時に、そのどれもが仮の姿に過ぎない。このまちを、この国を知るには、あとどれだけの時間と経験が必要なのか、私には想像することもできなかった。
 夢と現実の交錯する魔都を車窓に眺めながら、私は旅とは一体なんであろうか、という深い思索にふけっていくのだった。


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