バガン

地図表示

 オーディナリーは木製のクロスシートにミャンマー人がすし詰めだったが、全席指定のアッパーには、申し訳程度にクッションの効いたリクライニング可能な座席が装備されていた。乗客はみな裕福そうな身なりをしており、外国人は私しかいなかった。
 列車が途中駅に停まるたびに、物売りが高らかに声を張り上げながらいろいろなものを売り歩く。夜行なんだから静かにしてくれよ。しかしそういう物売りたちから物を買う者も少なからずいた。彼らもやはり、この鉄道の旅を楽しんでいるようだった。
 漆黒の闇の中を列車はのんびりと進んだ。私は今列車に乗っている、はずであった。だが私たちは、マンダレー行きの夜行バスを彷彿とさせる縦ゆれに見舞われ、常に瞬間的な浮遊感覚を味わわせられていた。一体なんなんだ、これは。
 英国が敷設し、日本軍が拡張した線路は、その後、保守がほとんど行われていないらしかった。逆説的に言えば、それでもこうやって立派に列車は走っているのだ。見事というより他なかった。

 しかしこの際そんなことは大した問題ではなかった。車内がしんしんと冷えてきたのだ。冷暖房のたぐいは一切ない車内で、私はまたもや寒さに震えることになった。夜行バスで痛い目にあった私は、今度はしっかりと上着を着込んでいた。だが、裏起毛のトレーナーもこの寒さでは何の役にも立たなかった。まわりのミャンマー人達は、手慣れた様子で大きな毛布や寝袋を持ち込んでそれにくるまっている。マンダレー駅で彼らの大仰な荷物を見て内心笑っていた私は、いま手痛いしっぺ返しを食らっていた。バスとは違い、寒さをしのぐバスタオルすら私には用意されていないのだ。熱帯の夜がここまで寒いとはどうして想像できようか。
 不思議なことに、彼らは窓を閉めなかった。窓を開けて寒風を受けながら毛布に包まるのだ。なぜ?
 だが私の意識は徐々に遠のいていった。人口密度の低いアッパーの車両は、今やシベリアのような寒さに晒されていた。ひどい話だった。私は異国の鉄道のアッパーの座席で凍え死ぬのだ。体は氷のように冷たく、もはや動くこともできなかった。

~新築のバガン駅~

「ミスター、ミスター?」
 ふと気づくと、私は男に体を揺すられていた。体中がこわばって思うように動けない。口も動かない。なおも男は言う。
「ファイナル、ファイナル!」
 終点か。助かった。
「ここはバガン?」
「そう、バガン。私はタクシードライバー」
 私はふらつきながら男について列車を降りた。そこは新築されたばかりのバガン駅だった。どうやらつい最近、バガンにも鉄道が敷設されたようだ。
 私は彼にサン氏が勧めてくれた宿の名前を告げると、車に乗り込んだ。そこもひたすら寒かった。途中にゲートがあり、役人から外国人のバガン入域料として十ドルを徴収されたが、また値切ってみようかなどと言う考えは、ちらりとも頭に浮かぶことはなかった。
 夜明け間近の五時半に宿に着くと、運転手はクラクションを鳴らして主人を起こし、私はその場でチェックインすることができた。これで生き返る。
 ところがそうはいかなかった。下がりきった私の体温は薄っぺらな毛布一枚ではどうにも回復せず、結局寒さで眠れぬまま九時になってしまった。私は諦めて起き上がると、朝食をとりに玄関脇のテラスに行った。庭に臨む小さなテラスには私のためにプラスチックのテーブルと一脚の椅子が用意され、主人はそこに焼き立てのトーストと暖かい紅茶を運んできてくれた。柔らかな朝の日差しが、冷え切った体に心地よかった。
「一泊いくら?」
「四ドルです」
 遂に四ドルまで来たか。私はここに連泊することにした。言うまでもなく、ここのホットシャワーも水であった。

~ニァゥンウーの港町~

 バガンは元により滅ぼされるまでのあいだ壮麗な王朝として栄えたところで、いまや荒涼たる仏教遺跡だけが当時の栄華を伝える、非常に大規模な史跡地区である。バガン地区は、遺跡の集まるオールドバガン、商店の集まるニァゥンウー、そしてニューバガンの三つのエリアからなっていて、私が泊まった宿はニァゥンウーにあった。
 なにでまわればいいだろう。そう主人に相談すると、そりゃあレンタサイクルだよといわれ、私は二百チャットで古い自転車を借りることにした。
 まずはマーケットに行ってみた。だがバガン地区随一のマーケットらしく、そこはすっかり観光地化されていた。
「オニサントテモハンサム、コレハッピャクチャットトテモヤスイ」
 そんなことを言われたところで到底買う気にはなれない。マーケット自体には活気があって楽しかったが、外人とみると目の色を変える商人たちに失望して、私はそこを離れた。

 自転車をこいで港まで行った。港とはいっても単なるエーヤワディー河のほとりで、小さな船着き場のまわりにいくつか商店があるだけのものである。茶店に座ってジュースを飲んでいると、男が話しかけてきた。
「舟、パゴダ三つ」
 ふうん。
「舟、パゴダある。安い」
 あ、そう。
 ここまで英語の出来ない男をガイドに雇うのはぞっとしなかったので適当にあしらった。
 店を出ると、私は河べりに腰掛けてあたりを観察した。女たちは器用に頭に荷物を乗せて運び、男は牛車をひいている。水辺では男も女も沐浴をしている。彼らにとっての入浴とは、暑い昼のうちに河で体を洗うことらしかった。それは牧歌的でエキゾチックな光景だった。
 サイカー運転手が話しかけて来た。
「舟で奥に行くのはどうだい?舟でしか行けないんだ。千チャットでいいよ」
 舟か。だが、奥には何があるのだろう。
「パゴダが三つあるんだ。どうだい?」
 私は八百チャットでその話にのった。彼はサイカーを人に託すと、舟の手配に走り回った。
 は木製で、数人乗りの小型の釣り舟のような形をし、古いモーターがついていた。専任の船頭が一人、そこにガイドとしてサイカー運転手セイン氏とその二歳の息子、そして私の合計四人が乗り込んだ。
 港の奥には、確かに遺跡があった。船頭を舟に残し、我々はそこへ向かった。陸路で行けないところだけにとても閑散としていたが、年老いた僧侶が管理人として、静かにそこを守っていた。河の流れは穏やかだった。そして人々もまた穏やかだった。陸の孤島であるこの地区にも小さな集落があり、そこには太古から変わらぬ、水辺に生きる人々の生活があった。

 その翌日、私はニァゥンウーでサイカーをつかまえると、バガン最大の遺跡、オールドバガン地区にあるアーナンダ寺院に向かった。参道は凄まじい賑わいだった。ミャンマーの人々にとってもバガンは高名な観光地らしく、そこを代表するアーナンダは各地から集まったミャンマー人や外国人観光客でごった返していた。辺りはお祭り広場のような様相を呈し、遺跡と言うよりまるで現役のまちのようだった。
 屋台のラジカセからはミャンマー語でカヴァーされたボン・ジョヴィの「リヴィング・オン・ア・プレイヤー」が流れている。そしてその脇では額に入れられた仏像の写真が無数に飾られ、売られているのだ。
 私はそこで、マンダレーで同宿だったナターシャに偶然再会した。
「あら、バガンにはいつ来たの?」
「おとといの夜行列車で」
「列車で来たの? 普通はバスじゃない?」
「そうだね、バスのほうが安いしね。でも列車にも乗ってみたかったんだ。凄く寒かったけど」
「宿は?」
「安いんだ。一泊わずか四ドルだよ」
「私なんか、衛星テレビがついて三ドルよ」
 ナターシャは得意気にそう言った。はい、おみそれいたしました。
 私は彼女と別れると、境内に入っていった。中は広く、遺跡とは思えない整いようだったが、それでもやはり、私にとっては数あるパゴダの一つに過ぎなかった。私の心に残ったのは、プレゼント、マネー、プレゼント、と纏わりついてくる子供の姿だけだった。

~オールドバガンにて~

 人気のない、雑草の生えた寂寞とした大地がどこまでも続き、そして至る所に赤茶けたパゴダだけが忘れ去られたように建っている。たしかにその光景は私を夢幻の世界に、遠き日の失われた記憶にいざなうに十分だった。しかしそこには瑞々しい生の躍動はなかった。そこにあるのは「過去」だ。消し去ることのできない、実体を伴った、圧倒的なまでの「過去」だ。そして「過去」は、「いま」という存在に増して私の心を打つことは決してなかった。
 バガンにはアーナンダ以外にも無数の遺跡があった。本当に崩れかかったパゴダまで含めると、全部をじっくり見ようとすれば相当な日数を要するはずだ。アーナンダのような名だたる遺跡だけでも何十もあり、それらをみてまわるにはやはり自転車が推奨されていた。だが、遺跡を残さずみて、それでどうなるだろう。
 私は敢えて徒歩で二、三を訪れるにとどめ、オールドバガンの中心から馬車に乗ってニァゥンウーに戻った。

 ニァゥンウーは近代化という言葉とは無縁のまちで、都市機能と呼べるようなものはなにもなかった。まちなかの建物もどれも古く、いかにも脆そうではあったが、人々は明るかった。私はそんなニァゥンウーの中心地から少し離れたところを歩いていて、奥の砂地へと続くさっぱりとした小道を見つけた。この先にはなにがあるのだろう。
 歩いて入っていくと、雑然とした区画の中に木でできたとても簡素な作りの家々が立ち並び、人々が歩き回っていた。どうやら一つの集落であるようだった。
 十代前半の少女たちが樽に井戸から水を汲んでいた。
「こんにちは。何やってるの?」
「水汲んでるのよ」
「英語できるの?」
「ははは」
 水を汲み終わった少女たちは、笑い声をあげると台車のついた樽を引っ張っていった。私も後について村の奥へと進んでいった。そこには、自然と共に平穏な毎日を営む人々が暮らしていた。まちの風景とはまた異なる、飾られていない、ありのままの日常がそこにはあった。当然、そんなところに外人が入って来ようとは彼らも予想だにしていなかったろう。

 草葺きの小屋があった。いや、小屋と言っては失礼かもしれない。家なのだ。その家の前では人々が巨大な耕耘機に山のような荷物を積み込んでいるところだった。耕耘機も、ここでは立派な輸送手段だった。私は家の横にあった木の台に腰掛け、その様子を見守った。家の人々は私をとても気にしている。
「こんにちは」
 私はそうあいさつしてみた。だが残念ながら彼らは英語ができないようだった。
「いい家ですね。この屋根は?」
 私は屋根の草を掴んで尋ねた。さっそく家中の人が私のまわりに集まってきた。おかみさんは向こうの空き地に生えていた木を指差すと、それを刈り取って積む仕種をした。
「ああ、あの木の葉を使ってるんですね」
 そうだそうだと大きく肯く。するとまわりの皆も、私に意志が通じたらしいことを知り、大いに笑って肯いた。
 主人が出てきて私を家の中へと案内した。今までに見てきたどのミャンマー人の家よりもそれは質素で、原始的で、言うなればお粗末だった。だが、まったくもって私には小屋にしか見えないこのオープンエアの建物が、彼らにとっては大家族の暮らす邸宅だったのだ。そこには布のハンモックがあり、草のベッドがあり、石の厨房があった。私が興味深げに眺めていると、皆がミャンマー語で説明してくれた。
 主人は、まあ座りなさいと私を木のテーブルにつかせるとバナナと落花生を差し出し、指で残り湯のあった茶飲みの内側を素早くこすって洗うと私に茶をいれてくれた。家の中には家族が全員集合して私の一挙手一投足を息を殺して見つめている。ありがたく茶を頂いた私は、主人にジェスチャーを交えて尋ねた。
「彼らは、みんな、あなたの子供?」
「イエス、マイ、ファミリー」
 主人は、どうだと言わんばかりに大きく肯いた。意志の疎通こそ十分ではなかったが、暖かい歓迎の心だけは痛いほど伝わってきた。あるいは彼らのような生活こそ、この国でもっとも一般的なものなのかもしれなかった。私はそういうごく普通のミャンマー人の姿に触れられたことが嬉しく、丁重に礼を言ってその家を出た。
 外では、先ほどの耕耘機に、今度は何十人と言う人々が乗り込んでいるところだった。皆が私の方をちらちらと見ていた。私が写真を撮ろうとすると人々は一斉に我も我もと騒ぎ出し、結局私も先っちょに乗せてもらって大勢の人々と一緒の写真に収まることになってしまった。
 耕耘機はゆっくりと去って行った。私は、いつまでも彼らに手を振りつづけていた。

 私がそこを去ろうとすると、利発そうな女性がついてきて英語で尋ねた。
「ねえ、あなたどこに泊まってるの?」
「オアシス・ゲストハウスだよ」
 するとそこここから村人たちがやってきて、私たち二人を取り囲み始めた。そしてなにか囁きあっている。彼らが何と言っているか、私には手に取るようにわかった。
「この子、外人さんとしゃべってるよ」
「ああ、外人としゃべってる」
 そう言っているに違いなかった。
~ニァゥンウーの集落~

 二十一歳のその女性、ウィンさんは、見るからに鼻高々といった様子だったが、嫌味はまったく感じられなかった。
「私、バスターミナルの近くの中華料理屋で働いているの。あなた日本人?」
「そうだけど」
「私、必ず日本に行くわ。仕事は?」
「エンジニアなんだ」
「すばらしいわ。私が日本に行ったら、手助けしてね」
「喜んで」

 私はその村を離れて、宿に戻った。いよいよ明日は日本に帰る日だった。


次 前 AKIRA Travels ミャンマー旅行記 PHOTO