変わらないもの

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 目が覚めると、となりのベッドに彼の姿はなかった。この部屋に先客として滞在していた一人旅の学生だったのだが、どうやら早起きして既に出払ってしまったようだ。
 私は大きくあくびをして、そっと居間に出た。別室のベルギー人のカップルも、九州の大学生たちもまだ起きてこない。

 ベルギーで建築学を専攻しているというリヴンとは、様々な点で話が合った。彼は古い町並みが好きで、トルコ各地をガールフレンドと一緒に巡っているのだという。すでにここがすっかり気に入ってしまっていた私は、彼に言った。

「このまちって、なんていうか雰囲気があるよね」
「そうかなあ。僕はちょっとトゥーリスティックに過ぎると思うんだ。悪いところじゃないんだけど」
「じゃあ今まででどこが一番よかった?」
「先週はアマスヤというところにいたんだ。知ってる?そうか知らないのか。そこは本当に静かでいいまちだったんだよ」
「アマスヤか。君がここよりいいというのなら、本当にいいところなんだろうね。ところで、建築の専門家としてはトルコのことをどう思う?」
「トルコは古い建物は素晴らしいんだ。それは僕も彼女も同意見でね。でも新しいものはいただけない。色もつくりも、センスなんてあったもんじゃないんだ」
「ははは。確かに新しい建物には酷いものが多いよね」
「日本には安藤忠雄がいるじゃないか」
「彼を知ってるの?」
「もちろん。建築をやっていて彼を知らないものはいないよ」
 その後、話題は黒澤明へと発展し、小ぢんまりとした居間で私たちの会話は夜遅くまで続いたのだった。きっとそれでまだ眠っているのだろう。時計を見ると、既に八時をまわっていた。

~休憩中の床屋~

 トルコに到着するや否や、私は空港からオトガル(長距離バスターミナル)に直行して、昨日の夕方、ここサフランボルにやってきたのだ。
 サフランボルはヒッタイト時代から栄えていたという非常に歴史のある小さなまちで、今でも古い民家や商店がそのままの形で残り、使われている。人口こそ僅かなものだが、五感で感じることのできる古都の風情と、ゆったりとした時の流れ方とがとても心地よいところだった。

 バスを降りたはいいが、右も左もわからずにうろうろしていた私を捕まえてこのペンションに引っ張ってきた客引きこそがオーナー一家の息子だったわけだが、別れ際に確かに「明日の朝八時に俺のママが朝食を持ってくる」と言っていたにも関わらず、そんな様子はどこにもなかった。

 腹が減っていた私は、玄関のドアを開けると外に出た。トルコにおけるペンションというのは日本の民宿のようなもので、民家をベースにした宿泊施設のことである。このペンションの建物は母屋とは別棟になっていて、オーナーは母屋の二階に住んでいた。

 ベルを鳴らすと、なかから母親が現れた。
「えーっと、昨日あなたの息子さんに朝食のことを頼んだんですけど、まだ準備はできてないんですか?」
 彼女はきょとんとしている。駄目だ、英語が通じないらしい。おまけに昨日の男はもう仕事に出てしまったのか不在だった。仕方がないのでジェスチャーを総動員して訴えた。
「今日、朝飯を、部屋に、持って来てくれるって、聞いてたんですけど」
 食事?と彼女も食べる真似をした。そうそう、食事です食事です。すると彼女は奥にいた娘と相談し、私を家の中に手招きして洗濯物を片付け始めたのだ。
 どうも昨日の話が大嘘だったらしい。彼女は私の朝食のことなんて初めから関知していなかったのだ。
 でもまあいいや。ここで食べさせてくれるというのだからごちそうになってしまおう。

 私は遠慮せずに家に上がりこむと、母親とその娘と三人で朝の食卓を囲んだ。はイスタンブールの大学に通っているらしかったが、英語が話せないことに関しては母親と大差なかった。
 私は会話集を見ながらなんとかコミュニケーションを取ろうと努めたが、この会話集というのがまったくの旅行会話ばかりで、「チェックインは何時ですか」とか「シャワーのお湯が出ません」といった実用文があるのに、「あなたは何歳ですか」や「私は会社員です」といったお互いを知り合うための基本的な文がないのである。

 ところがさすがは女子大生だ。彼女は英語-トルコ語辞書を持っていた。私たちはそれを引きながら単語だけで会話した。辞書を引くしばしの沈黙の後、ぽつんと単語を一つ言う。そしてまたしばらく後、一つの単語。
 なんとか理解できたのは、彼女が経済学を専攻しているということと、今は夏休みでここに帰ってきているということだけだった。
 言葉さえわかれば―。その強い思いは、旅のあいだ中ずっと感じつづけなければならないものだった。

 ごちそうさま、どうもありがとう。私は家を出ると、まちの散策を始めた。
 リヴンはこのまちのことをトゥーリスティックだといったが、立ち並ぶ店舗は観光客向けの土産屋よりも生活物資を商うところの方が圧倒的に多く、商人たちもまったく擦れていなかった。

 子供時代に家の近所にあった駄菓子屋さん。商売っ気の全くない老人がほとんど趣味のように経営していて、たまにおまけまでしてくれる。そういった種類の店がたくさん集まって一つの村になりました。
 例えるなら、サフランボルはそんなところだった。

 朝のまちは人影も少なく、商人たちは開店準備に余念がなかった。擂り鉢状の盆地に位置するサフランボルは、底にあたる小さな部分が中心地になっていて、そこから外周に向かって住宅地がはりついている。私は石畳の小道を抜け、西に東に複雑に絡まりあう坂道を上っていった。
 どの建物も伝統的な「出二階」の形をしていて、ほとんど崩れかけているような木造の家屋も多かったが、そこに実際に人が住み生活が行われているという事実が、瀕死の物体にも辛うじて生き長らえるための力を与えていた。

~明るい子供たち~

 トルコの子供たちの人懐っこいことといったら半端ではない。他のイスラム圏の例に漏れず若い女性たちは写真を撮られるのを嫌がるが、子供たちは臆面もなく近寄ってきては写真をねだるのである。「フォト、フォト!」、そしてその後は「アドレス、アドレス!」。
 中心部を離れて住宅地にさまよい込んでいた私は、写真を送ってくれという子供たちの大攻勢に遭っていた。色鮮やかなブルーの上着を着ているのはきっと小学生だろう。そして濃紺のブレザーやチェックのスカートをまとっているのは中学生かもしれない。

 高い石の塀に小さな木の扉がついていた。私は彼らに袖を引っ張られ、その中に吸い込まれていった。子供たちが溢れていた理由がわかった。なるほど、ここは小学校の前だったのだ。
 始業前のざわめきの只中に外国人が現れたことで、校内は大変な騒ぎになってしまった。私はあちこちの教室を連れまわされ、その度ごとに怒涛のような握手とカラテの洗礼を受けた。私も適当な型で構えて答礼したが、日本人が構えれば、それだけで彼らには本物のカラテなのだ。
 そのうちに授業が始まった。私は先生に挨拶して、学校を後にした。

 これが日本だったらどうか。学校にガイジンが入ってきたら。まず子供たちは怖がって近付かないだろうし、先生だってまさかにこやかに握手なんてしないだろう。
 国民性と一言で片付けるのは容易だ。でももっとなにか、我々日本人とは根本的に違うものを彼らは持っているのかもしれない。

 人気のない丘に上ってみた。丘の上では、五、六人の少年たちが隅に固まってタバコを吸っていた。ブレザーを着ているところからすると中学生だろう。日本でいうところの昔懐かし不良少年ってとこかなと思いながらそばを通りすぎようとした私を、彼らは音もなく取り囲んだ。
 おっと、これはまずいかもしれない。辺りに人家はなく、かつては何らかの重要な施設であったろう石造りの建物がただ一つ、廃墟と化して鎮座しているだけだった。
 私が身構えていると、少年たちはなにやら口々に喋り出した。言葉の様子からすると、どうやら私を案内してくれるようだ。
 面白そうじゃないか。私は彼らについていくことにした。

 それにしても、と私は思った。トルコ人ってのは外国人が自分の国の言葉を理解できないかもしれないなんていうことは考えもしないんだろうか。とにかく彼らはひたすら喋った。わかったふりをして適当に返事をする私も私だが、それでなんとなく気持ちが通じ、会話が成り立ってしまうところが不思議だった。

 少年たちは私を奥へ奥へと連れ込んでいった。険しい岩山を上り、道なき道を行き、気がつけばすでに太陽は天頂近くに移動していた。
 あるとき彼らは後ろを振りかえると、胸を張って下界を指差した。
 眼下にはサフランボルのまちが、こぢんまりと、それでいて雄大に広がっていた。
 リーダー格の少年が言う。どうだ、すごいだろう。本当にそう言ったかどうかはわからないが、きっとそんなことだ。ああ、すごいね。私も言った。

 三下からは木の実を、そしてサブリーダーからは菓子を貰い、相変わらず意味のあるようなないような会話をしながら私たちは進んだ。そのうちにやっと家々が見え始めた。どうやら隣町まで来てしまったらしい。
 ここが俺たちのまちなんだ、彼らはそう言っている。そうか、きっと自分たちのまちを見せたかったんだ。
 私は少年たちの家を一軒一軒挨拶してまわった。彼らの親ときたら、自分の息子が学校をサボって得体の知れない外国人と一緒にいるというのに一向に気に留める様子もなかった。

 通りでゴミ箱を漁っている薄汚れた少年がいた。
「クルド!」
 一人が私の耳元で小さく囁いた。クルド人問題はこんな田舎にも潜んでいるのだ。底抜けに明るく開放的に見えるこの国にも、暗部はある。旅行者にはなかなか見えてこない部分だが、それもまたこの国の姿の一部なのだ。

 知らないうちにずいぶんと遠くまで来てしまった。だがこのままここに置いていかれるのではという私の懸念は杞憂に過ぎず、彼らは別のルートを辿って私を再びサフランボルまで送り届けてくれた。少年たちの親切は、単なる外国人への好奇心と言い切ってしまうにはあまりに篤く、温かかった。
 おかげで道中とても楽しかったよ。ありがとうみんな、元気でな。

~幼い絨毯屋~

 トルコの国民的飲料、それはチャイだ。チャイとは即ち紅茶なのだが、イングリッシュティーとは様々な点で異なっている。
 まず淹れ方が違う。少量の熱湯でたっぷり時間をかけて浸出させた濃い目の茶を、湯で薄めて淹れる。そしてグラスが小さい。まるでヤクルトのように小さなガラスのコップになみなみと注ぎ、砂糖をたっぷり加えて苦みをおさえる。
 チャイは飲み物というよりはもはや生活の一部であり、あたかも空気のような存在なのだ。どんなまちにもチャイハネと呼ばれる喫茶店があり、常に暇を持て余した男たちで溢れている。

 一軒のチャイハネに入ってみた。
「ジャポン?」
「エヴェット(はい)。ベン・ジャポヌム(日本人です)」
 こんな会話をしただけなのに、私が金を払って店を出ようとするとその親父に制止されるのだ。
「ここはわしが払うからあんたは払わんでいい。そのかわり、明日も来るんだぞ」

 金物屋の前で足を止め、店頭に飾られた一風変わった形の金具たちに目を奪われていると、主人に声を掛けられた。どうだい、中に入らないか?
 このまちでは、欲得で旅人に声を掛ける商人は少ない。ただ持ち前の外向性が抑えきれずに溢れ出してしまうだけなのだ。私は喜んで店を拝見させてもらうことにした。
 そこは小さな、本当に小さな作業場になっていて、主人が一人で鍛冶をして金具を作っていた。彼は奥の引き出しから古い新聞を取り出して自慢げに私に見せる。ほら、これが俺だ。この雑誌にだって載ったし、テレビの取材だって来たんだ。すごいだろう?

 彼もトルコ語しか話せなかったが、なぜか内容は完全に理解できた。へえ、それはすごい。立派な仕事をしてるんですね。
 彼の職場はお世辞にも立派とは言えなかったが、そこから生み出される金具の数々には気迫がこもっていた。

「ところで食事はどうだい? え?食事だよ、しょ、く、じ。腹、はらはら、ここ。腹が、減ってるんじゃないか?」
 お言葉に甘えて昼飯をご馳走になることにした。彼は早速パンと肉の煮込みを買ってくると、二段式のやかんでお湯を沸かしてチャイの準備をした。そして薄暗い作業場で、彼の幼い一人娘と三人で私はのどかなお昼時を過ごしたのだった。

 言葉が通じないことは彼にとっても大きな問題ではないようだ。言葉って一体なんだろう。もしかして人間に言葉なんていらないのかもしれない。そう思いもしたが、やはり言いたいことを十分に伝えられないのはもどかしかった。
 ごちそうさま。ありがとう、また来るよ。私は彼の店を後にした。
 何か買ってあげなくては、という気持ちをまったく起こさせないほどそれは自然なもてなしであり、実際何も買わなかった私を主人と娘は気持ち良く見送ってくれた。

 心からくつろげるまち、何の心配もなく人々の親切に浸れるまち、無条件に甘えが許されるまち。桃源郷とは、このような場所のことをいうのかもしれない。

~街角の公共水道~

 ドルムシュ(小型のワンボックスカーを改造したミニバス)乗り場のベンチで休憩していると、男が英語で話しかけてきた。
「日本人かい?」
「そうです」
「ここにはいつ来たの?」
「昨日来たんだけど、すごく気に入ってるんです」
「それは良かった。それでいつまで居るつもり?」
「ずっと居たいんだけどそうもいかなくって。明日出発します」
「どこへ?」
「まだ決めてません」
「そうか。俺はイズミルに住んでいるんだ。今は法律をやっている。兵役のときはマラテヤにいたけど、あそこもいいまちだった。俺は外国には行ったことはないけど、トルコ中をまわってるんだ」
「へえ、トルコ中を。じゃあ、どこかお勧めのところはありますか?」
「お勧めか。お勧めね…。ワンだ。ワンはトルコでもっとも美しいところなんだ」
「ワンかあ。遠いですね、行きたいけど。西の方だったらどこがいいだろう」
「ベルガマだ。ベルガマはいいぞ」

 彼の乗るドルムシュが発車するようだ。彼は別れ際もう一度後ろを振り向くと、大声で叫んだ。
「ベルガマに行けよ!」


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