夕暮れの少女
通りの角から馬が荷車を引きながら走ってきた。荷台の上では幾人かの青年たちが私に向かって手招きをしている。私は走り寄ると、さっと飛び乗った。皆と同じように荷台に横向きに腰掛け、足を垂らす。大きな歓声が上がる。そこには月並みな挨拶などはなく、始まったのは楽しげな歌だった。馬はそれにより勢いを得たのか俄かに足を速め、砂塵の舞う夕暮れ時の黄色い道をパコパコと進み続けた。私もわからないなりに声を合わせ、肩を組んで体を揺らせた。
どれくらいの時間そうやって進んだろうか。ふと我に返った私は、宿からすっかり離れてしまったことに気づき慌てて荷台から飛び降りた。それでも馬は淡々と歩み続け、皆は驚くでもなく手を振っている。私も笑って手を振り返した。
荷車を引く馬
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しばらくして彼らが視界から消えると、はて、と私は考え込んでしまった。辻々で曲がるうちにすっかり場所がわからなくなっていたのだ。そのとき私は、通りの陰からそっとこちらの様子を伺う視線に気付いた。目を遣ると、そこには六、七歳の子供たちが数人、固唾を呑んで立っていた。ところが私がそちらに一歩踏み出したとたん、子供たちは一斉に叫び声をあげて蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまったのだ。
やれやれ、誰かに道を訊かなくては。そう思って見渡すと、おやおや、たった今散り散りになったばかりの子供たちがまた集結してこっそりと私を盗み見ている。それではと一歩踏み出すと、再び叫び声とともに雲散し、そして集結。面白くなってきた。
今度は勢いをつけてそちらに走り寄ってみた。すると巻き起こった騒ぎはこれまでの比ではなく、誰もが能う限りの声で悲鳴を上げ、上を下への大騒ぎ。これで懲りたろうと思いきや、この騒ぎを聞きつけたのか、よその子供たちまでもが加わり始め、よく見ればさっきより人数が増えている。
こうなったら君たちの遊びにとことんつきあってやろう。私はあたかも鬼ごっこの如く、追いかけては逃げられ、追いかけては逃げられを繰り返した。本気で怖がっている子もいたのだろう、追いかけられる途中で自分の家に転げ込む子も少なからずいた。
砂漠の町ドゥーズ
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私がそんな中で数人のグループを追いかけていたとき、家の門扉をくぐろうとした女の子が私の目の前でつまずいて転んでしまった。私は助け起こそうとしたが、その子は痛いやら怖いやらですっかりパニック状態。髪を振り乱して家の中に飛んで入っていった。まいったな…。このまま立ち去るのも気が引けるし、かといって何と言って謝ればいいのだろうか。
事態を察した子供たちが私を遠巻きにし始めた。とその時、家の中から女の子の母親と思しき人物が現れた。ああこれは怒られるな。私が首をすくめていると、どうしたことか彼女は笑って私を手招きするではないか。わけがわからないまま門をくぐると、庭先では父親が夕食のパンを焼いていた。
「こ、こんにちは」
私のアラビア語はせいぜいが挨拶どまり。そして彼らには当然英語は通じない。それでも父親は立ち上がり、ごつごつした大きな手で私と握手すると、家の中に招き入れた。そこではちょうどこれから夕餉が始まろうとしており、さっき大泣きしていた女の子は部屋の隅のほうで姉に掴まりながら恐る恐る私を見上げている。
私は促されるまま部屋の真ん中にどしりと腰を下ろした。怒られるどころか、どうやら歓迎してくれるらしい。いささか拍子抜けしたが、招待を拒む理由は何もない。私は有り難く夕餉をともにさせていただくことにした。
不思議なのは、ここまでのやりとりに言葉が登場しないことだ。これまでに幾度も経験してきたことだが、中途半端に言葉が通じるより、いっそ徹頭徹尾通じないほうが身振り手振りで意思疎通できることが多いのだ。頭で理解するのではなく、心で通じ合うのである。
食事はおいしかった。皿が空になるころにはすでに姉妹もすっかり私になつき、教科書のようなものを持ってきてフランス語を私に教え始めた。フランス植民地としての歴史を持つチュニジアは、今でもフランス語の通用率が高いのだ。アン、ドウ、トロワ。フランス語に関しては、その三語しか知らない私より姉妹のほうがずっと上だった。私も代わりに日本語を教えた。いち、に、さん。アン、ドウ、トロワ。
そのうち母と娘とがダンスを始めた。独特の振りをつけたアラブのダンスだ。音楽もないのに、二人でリズムを口ずさみながら愉快に踊っている。私をもてなすための余興にしてはなかなかのものだ。あるいは食後にダンスを踊るのが日課なのかもしれない。
楽しい時間を